江戸から40里31町(160㌔m)21番目の宿場で追分宿と岩村田宿のほぼ中間に位置する。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で規模は小さいが、大名行列は追分に宿をとり、ここは姫君など女性が中心に宿をとったことから「姫の宿」と呼ばれた。
間口が広く、ゆったりとした宿場である。当初は小田井城の城下町として町割りされたと思われるが、戦国の動乱期に廃城となってからは宿場町として改めて町割りされた。
小田井はこの地方の中心地だったが、明治になり鉄道が通ることを反対したため、明治21年(1888年)、スイッチバック式の御代田駅が2㌔mほど北東に造られた。大正2年(1913年)佐久鉄道(現小海線)が岩村田、中込につながるまでは、佐久地方の玄関として御代田、小田井は栄え、馬車が街道を行きかったという(御代田駅周辺は栄町と呼ばれている)。
その後、主要幹線から外れたことから、古い建物が並び当時の雰囲気を残していることから御代田町指定史跡になっている。
今では、幕末の皇女和宮が降嫁の際、この宿でお昼休憩をとった。それをモチーフに、毎年8月16日に小田井宿祭りが行なわれている。
■御代田一里塚(大久保一里塚)
小田井宿の北東2㌔m(御代田駅のちかく)に、一対の形をとどめた一里塚がある。この塚は江戸初期に中山道が整備された際に作られたもので、昔は榎が植えられていたようであるが、今はしだれ桜が植えられている。南塚の桜は昭和(1925年〜)になって枯れてしまった。桜は日露戦争の戦勝記念に植えられたという。北塚の桜も近年樹勢が衰えてきた。
寛永12年(1635年)に道路の改修が行われ、街道から外れたこともあり保存状態は非常に良いものである。中山道佐久地域で原形をとどめるのはここだけで、長野県史跡に指定されている。
■飯玉神社(白髭神社)
小田井宿北の中山道より少し北西に入った場所にあり旧社名は白髭(しらひげ)神社と言った。白髭の老人が日本武尊を救ったという古事にちなみ、神社が作られたという。
祭神は豊受比売(トヨウケノヒメ)を祀る。
浅間の噴火の流れ山の上にあり、前田原地区の氏神様である。浅間山を背景に祈雨、止雨の神として尊崇されている。
室町時代の永正4年(1507年)創建されたとあるが、もっと古くからあったとも言われている。飯玉とは良い水の出るところという意味で、佐久の7玉の池の一つと言われていたが、近年湧水量がめっきり少なくなり、今は大雨のあとに水がたまる程度である。
■長倉諏訪神社
長倉諏訪神社の正式な呼び名は、長倉神社・諏訪神社合殿という。祭神は、天児屋命(アメノコヤネノミコト)建御名方命(タケミナカタノミコト)
長倉神社は軽井沢に近い伍賀の宮平地籍から上小田井に移され、天正年間(1573〜1592年、戦国時代の末期)にここに移され宿場の鎮守として祀られている。佐久式内三社の一つといわれる。
2月の道祖神祭りでは、境内に置かれている大きなわら馬や、手作のわら馬を引いた子どもたちが、沿道の子どもを大馬に乗せたり、お餅を配りながら、集落内の4つの道祖神を巡る。一度は途絶えた祭りであるが村人の努力により復活させた。
この神社には御神木として樹齢300年ほどのケヤキが祀られており、町の天然記念物となっている。
■宝珠院(ほうしゅいん)
真言宗の寺院で古くは「飯玉山 寶珠院 慈眼寺」と称した。室町時代永正(1504〜1521年)年間に、上小田井に開山されたという。開基は小田井宿大黒屋の小林伝兵衛。小田井宿造成とともに、ここに移転したと伝わる。境内には見事な枝ぶりの御代田町指定天然記念物の赤松がある。2本の赤松を寄せ植えしたもので胴回り2,7メートル 高さ7,5メートル 東枝の張り出しは8メートルある。
また寺には萱葺きの立派な鐘楼があり、江戸末期の建築と言われたが、令和2年11月3日の開山500年記念として茅葺きから銅葺きにリニューアルしている。岩村田用水から寺用の水を分けた、一合の「分水桝」が残っている。
■本陣 脇本陣
安川家が江戸時代を通じて小田井宿の本陣を務めた。宝暦6年(1756年)の建築で、近年大改修が行われたそうであるが、上段の間を中心に4割ほど当時の建物が残されている。
文久元年(1861年)11月8日、14代将軍徳川家茂に降嫁のため江戸に向かわれた和宮様が、昼食を召されるため本陣にお立ち寄りになった。その時給仕の少年に、御所人形が送られたという。
脇本陣(すはまや)は尾臺家が務めた。本陣のはす向かいにあったが、今は表示のみである。
■問屋
上の問屋は本陣と同じく安川家が営み、江戸後期の建物。出染造りと連子格子が美しい。荷置き場 帳場 客室部 馬や 土間などがよく保存されているという。
下の問屋は尾臺家が務め、飛脚問屋でもあった。建物は明和9(1772)年の大火以降のもので、妻入り本棟づくりの豪壮な造りで、破風には懸魚(げぎょ)がつく。板塀の上を這う松は樹齢300年余りという。
2軒の問屋は半月交代で業務にあたった。内部は個人宅のため非公開となっている。
■旅籠(大黒屋)
元禄年間(1688〜1704年、江戸中期)の建築様式をとどめ 玄関に大戸(おおど)を持つ建物が残っている。
■裏前田原通り(夜盗道)
前田原の名主屋敷などが残る裏道は、旧中山道の古道で江戸時代には生活道路として利用されていた。
中山道と並ぶ形で通り、飯玉神社の前を通り栄町で中山道に合流する。この道は道祖神などの石造物や焼石の石垣も残り、歴史を感じさせる独特の雰囲気を醸しだしている。前田原は天領であった。
■小田井城跡
小田井城址は、宿の東側の田切と呼ばれる深い谷を挟んだ場所に位置する。広さはおよそ20ヘクタール。入り口はWの形をした堀で、3方は深いU字溝のような谷で囲まれた堅固な城塞であったと言われている。天文12年(1543年)暮れ、正月の休戦に入ったところを武田軍に急襲され落城となった。城主は討ち死に おんなと子どもはくぐり岩という抜け穴を通って氏神の十二の杜に逃げたという。築城からわずか23年だった。
城主の子市村(小田井)弾正はその後小田井に戻り再起を狙っていた。戦国の動乱期 北条につき、小田井城は北条方の拠点となるも、徳川方の依田信蕃によって攻め滅ぼされ、小田井城は廃城となった。
おんなと子どもが逃げたという穴の痕跡が、深い谷の壁に今も残り、高原野菜の畑となった城跡には、今も 空堀、土塁が残っている。
■皎月原(こうげつはら)
その昔平尾に配流となった官女の皎月が白馬に乗って現れ、金井ヶ原を駆け回った。
この白馬は天の龍馬で皎月は白山妙理大権現だという。駆け回った後は輪状に草が生えず「皎月の輪」と言われた。原は「皎月原」と言われるようになった。
毎年8月の十五夜に団子を供えてお祭りし、そのあと参詣の人に団子をまき与える。
その団子は「知恵団子」と言われる。
■鵜縄沢(うなわざわ)端一里塚 東塚
横根入り口の信号左手に一里塚の看板がある。そこから南に古中山道を50メートルほど入ったところに東塚がある。周囲20メートル 高さ4メートルとほぼ原形を保っている。西塚は主要道路に面していたために、道路拡幅整備事業で壊されてしまった。
鵜縄沢はこの辺の沢にぬなわ(ジュンサイ)があったことからこの地名となったようである。
出典:御代田村誌、中山道小田井宿パンフレット
江戸より距離42里2町(165km)、22番目の宿場町で、内藤氏(岩村田藩)の城下町(陣屋町)でもあった。江戸方の小田井宿からは1里7町(4.7km)、京方の塩名田宿までは1里11町(5.1km)の距離にあり、北の江戸方枡形のあった住吉神社付近から、南の京方枡形のあった若宮神社入り口付近まで、1kmとなっている。
本陣や脇本陣が無く、幕府の高官や公家などは、豪商の館や寺社に宿泊したと言われている。
また、善光寺道、下仁田道、佐久甲州道の分岐点であったため、交通の要衝として栄え、天保14年(1843年)には、家数350軒、人口1,637人(男808人・女829人)、旅籠8軒、問屋2軒となっており、旅籠は他の宿場に任せ、交通・運輸と商業に徹して発展してきたと言える。
古くは「大井の庄」と言われ、鎌倉時代から地頭(大井氏)の城や館が地形を生かして築かれ、佐久地域の中心地として栄え、現在の若宮八幡神社周辺を中心に民家6,000軒、社寺30など人口3万人を超え、国府の松本にも匹敵する規模の町並みと言われていたが、戦国時代初期の文明16年(1484年)北信の村上氏に攻められ、町の東にあった大井城は落城し、家々も廃塵に帰した。
その後は、武田信玄の領地となり、寺を中心に再興されるが、武田氏滅亡後はいったん織田氏の領地になり、本能寺の変後、北条氏との争いの末、徳川氏の領地となり江戸時代に至る。
昭和40年(1965年)代に、商店街は中央ビルとして建物を近代化しており、岩村田宿往還に面した江戸時代の建物は姿を消し、当時の面影は少ない。
■岩村田城址
江戸時代中期、元禄16年(1703年)に内藤正友(まさとも)が、1万6千石で移封(いほう:国替え)となり、岩村田のほぼ中央に陣屋を構えた。岩村田藩は7代続き、6代目の正縄(まさつな)の時、幕府要職に起用されたことから、幕末に7代目の正誠(まさのぶ)が岩村田の上ノ城地籍に岩村田城(別名・藤が城)を建設したが、明治4年(1902年)7月の廃藩置県によりわずか10年でその幕を閉じた。
その後、陣屋跡は、公共施設の建物が建てられ、陣屋を巡っていた水路も地下に埋設され、現在はその遺構を見る事は出来ない。
■上の問屋(荻原家・原家)、下の問屋(依田家)
岩村田宿は、商業取引中心の宿場であることから、中山道を始めとして善光寺道(北国街道)佐久甲州道、下仁田道などへの宿場間の人馬を手配し、物資の配送を行う問屋が2軒あった。
上の問屋は、本町の龍雲寺入口の南側にあり、下の問屋は、相生町の交差点の北側にあった。
■龍雲寺
鎌倉時代の正中元年(1324年)、地頭の大井氏が開基し、文清禅師を開山に招き、町南東部の羽毛平に臨済宗大智山(だいちざん)龍雲寺を創建した。その後、戦国時代の文明15年(1483年)に天英祥貞禅師により再建され、曹洞宗に改められ、太田山龍雲寺としたが、翌年文明16年(1484年)の兵火で焼失した。
武田信玄の支配地となりその庇護により、龍雲寺が再興され、北高禅師を招き、佐久郡における曹洞宗寺院の中心的な存在となった。元亀3年(1572年)には戦乱の犠牲者を供養する千人法幢(せんにんほうとう)が行われた。翌年、信玄は伊那郡駒場で死去、分骨が北高禅師により龍雲寺に運ばれ埋葬したと伝わっている。
昭和6年(1931年)境内から、信玄のものと思われる遺骨と短刀(島田助宗作)や袈裟環が発見されている。
山門には「東山法窟」の勅額が掲げられている。正親町天皇(おおぎまち)の宸筆で、元亀3年に下賜された。(東日本一の道場、という意味)
■円満寺
真言宗・智山派で、山号は大悲山。平安時代の康治3年(1143年)に、興教大師が円満寺北の芝間に創建したと伝えられている。戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)紀州の僧雄伝が開山、武田信玄が開基となり、施無畏堂(観音堂)を建立した。
現在の観音堂は、江戸時代の延享4年(1747年)に内藤氏が再興したもので、木造11面観音立像が安置されている。明治以降は不動明王と中尊大日如来座像が主尊となっている。
境内には、明治期の国会議員立川運平像や、軽井沢の慈善家カナダ宣教師のキャンベル夫妻の供養塔などがある。また境内奥の藤は、戦国時代の永禄年間に京都の本山から野田藤を移植したが、焼失。江戸時代の延宝年間(1673年~1681年)に再移植し、現在は二代目の藤である。
■住吉神社
岩村田宿の江戸方の枡形があった場所に近く、この付近から岩村田宿が始まる。この神社は、宿場の形態を整えるため戦国時代の文明年間(1469年~1487年)にこの地に祀られた。
祭神は、大阪の住吉神社に起神し、社には、庚申塔6基、道祖神20基、石祠13基などが合祀されている。
また、神社より南に30mほどの所に善光寺道の道標があったが、昭和に入り事故で破損したため、ここに旧道標が移設され、旧道標の場所には新たな道標が建てられている。
■旧法華堂跡
天台宗聖護院の信濃触頭(ふれがしら)で、東信地方の本山派修験道の拠点だった。無とう窟内陣には不動明王、役行者(えんのぎょうじゃ)東照大権現などが祀られていた。
屋敷裏には三宝荒神社があり、大井法華堂とも呼ばれ、所領は寺院や神社と同様、領主から安堵状が与えられ、天台宗の法華経による33日に及ぶ修行の場などに使われていた。 鎌倉時代の正和2年(1313年)から江戸時代の慶長12年(1607年)に至る。現在、中世文書や近世修験資料及び無とう窟内陣内の歴史的資料は、長野県立歴史館などに移管されている。
■西念寺
浄土宗で、京都知恩院の末寺。山号は一行山。
当初、南西へ1㌔mほど離れた閻魔大王鵜などを祀る蔦石付近の十王道で、浄土宗の布教を弘治元年(1555年)に始め、永禄3年(1560年)に岌往(おうきゅう)上が開山、武田信玄が開基で、本堂を建立した。
境内には、仙石秀久の墓所、同六男政直墓のほか、吉澤鶏山、詩人山室静、岩村田藩士の墓などが数多くある。
岩村田藩の陣屋で亡くなった、五代目藩主の内藤正国の墓所が、境内外の南西に祀られている。
境内にある大銀杏は、和合の木として一枝だけ実がなる。また、墓地の南西には、鼻顔稲荷の南側にあった上州道(下仁田道)の道標が移設されている。
■子育て地蔵
江戸時代の宝永5年(1705年)は、度重なる自然災害で未曾有の大飢饉となり、同年11月4日に岩村田の子供40人を蔦石に集めて「まびき」を行なった。蔦石に、40人の乳幼児の霊を慰める「子育て地蔵」が建てられ、その後郵便局横に移設された。
江戸時代は、冷害による飢饉や追い打ちをかけるように浅間の噴火などが起き、人々の暮らしは決して楽なものではなかった。ここの子育て地蔵は、西念寺で欠かさず供養が行われ、現在でも近隣から多くの参拝者が訪れ、子宝・子育ての地蔵尊として祀られている。
■伊勢屋敷跡
明治11年(1878年)頃まで、伊勢屋敷と呼ばれる伊勢神宮の出張所があった。伊勢神宮の御師(おんし)が駐留するための建物や、参拝者の宿泊所、土蔵、天照大神を祀る社など多くの建物があった。敷地はこの公園と南に200mほどの下仁田みち付近まで、広大な敷地を有していた。
当時ここにあった大神宮は、ここから1㌔mほど東にある鼻面稲荷神社の境内に、神明神社は北西の三宝荒神社境内に移されている。
その後、長野県の支所や警察署などが建てられたが、現在は、岩村田中央公園として市民のいこいの場所となっており、祇園祭の祭は神輿の休憩所などに使われている。
■篠澤家(佐久ホテル)
室町以前から続く豪商で旅館業などを営み、江戸時代には名主、割元(郡代、代官級の士族扱いで、登城の際は裃に2本差しを許されていた)、郷宿を務めていた。伊勢の御師による「一万度御祓大麻」が14体残されている。
宿泊者には、俳人の小林一茶や浮世絵師葛飾北斎らの文化人が逗留し、多くの大名や伊勢神宮への料理を献上し、将軍家や皇室などの感謝状等が数多く残されており、中には、佐久鯉の料理書なども残されている。
明治に建てられた建物には、明治天皇の専用室などがあったが、昭和60年(1985年)に取り壊され、現在の建物になっている。(「ささざわ」の読みは、室町中期の寛正5年(1464年)、宮中より賜ったとのことである)
■佐久甲州道
■上州道(下仁田道)
岩村田本町交差点から東に延びる下仁田道がある。稲荷町(今宿)を通リ、花園町で湯川を渡り、鼻顔稲荷神社を経て、安原、香坂から峠を越える道と志賀から峠を越える道であった。米をはじめ物資の輸送に活用された。
■善光寺道
住吉神社の南150mほどの所に、西に向かう善光寺道がある。長土呂を経て小諸の四ツ谷で北国街道と合流する。
■御嶽神社(みたけじんじゃ)
御嶽神社は、元は蔵王権現を祭った神社。金峰神社・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)から分離した神社で、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。
■若宮八幡神社
建仁2年(1202年)、地頭の大井朝光が、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したと言われている。 鳥居から参道を進むと社殿。瓦葺拝殿には「奉幣殿」と書かれた扁額。拝殿の後方には流造の立派な本殿があり、本殿の後方に御神木の欅がある。社敷地内には、上州道常夜灯などが移されている。
出典:佐久市志、「中山道佐久の道」佐久商工会議所
■千曲川の渡し
塩名田宿と対岸の御馬寄村が「橋元」となり、保全や架け替えにあたった。
橋の木材や人足を提供するため、佐久・小県の村々から当初は96カ村、後に130カ村が動員されて、助郷の「橋組合」が設けられた。
架けられた橋は、江戸時代初期、川中の岩と岩の間に木材を架けた「投渡し橋」という平橋。享保6年(1721年)には、岩が流され、川中に石垣で塁を築き、翌年に御馬寄(左岸)側を刎橋(はねばし)、塩名田(右岸)側を平橋にした。延享元年(1744年)には、船を連結させる「船渡し」に、平均すると2年に1回は流されたことになる。
明治6年(1873年)から、「千曲川船橋会社」が経営することになり、船橋の渡り賃が徴収された。
その後、官営となり明治26年(1893年)4月に、県営で木橋が架けられ中津橋となった。
■御馬寄村(みまよせむら)
江戸時代に矢島郷から村切り(むらぎり:単独集落として分かれた村)により成立したようである。
塩名田宿を補完し、延享3年(1746年)の助郷割り替えにより、塩名田宿の加宿となった。そして、馬や人夫が配備され、木賃宿もあり、八幡宿まで3㌔mと近く、川止めなどの際の宿泊者に対応した。
また、川西地区の米市場(こめいちば)として、毎月6日間、1と6の日に「六斎市」が開催された。集落には、数軒の穀物問屋や多くの商家があり物流の拠点として繁盛したようである。
明治22年(1889年)には塩名田村と合併して中津村となる。
■塩名田神社
寛文13年(1673年)正月、塩名田宿鎮護の神社(山王権現社)として祀られ、明治4年(1971年)「日枝社」と改称した。明治41年(1908年)12月、神社併合で滝大明神社・秋葉社・社口社・天神社と統合して、「塩名田神社」となった。
■小諸道(蔵小路)
塩名田宿の中宿と下宿の間から、耳取を経て小諸宿へ至る小諸道がある。この道は小諸藩にとって領内支配の主要道路で、明治2年(1869年)の川西騒動では小諸藩兵がこの道を通リ、塩名田宿へ入り、千曲川を挟んで御馬寄部落へ集結した一揆勢と対峙した。
■本陣・問屋跡
塩名田宿の丸山家は、本陣は宿の中央北側と南側に2軒の本陣があった。なお、北側の本陣は問屋を兼ねていた。
北にある問屋を兼ねた本陣(丸山新左衛門家)は、上段の間付の御殿と称された部分は失われたが、間口8間・奥行11間半の、江戸中期に建てられた主屋は、現在もその形をとどめている。
南の本陣(丸山善兵衛家)は、令和の初め頃まで「大井屋」として雑貨商を営み、昭和50年代まで建物は保存されていた。
北側本陣の東隣に、脇本陣・問屋を勤めた丸山家があった。
■佐越家住宅
宿場で最も古い様式を伝える「町屋佐越、佐藤家宅」がある。天保2年(1831年)に建てられたもので、初め農家であったが、町屋の造りに変わったとのこと。間口5間・奥行7間半、格子が綺麗な旅籠づくりの建物。
隣の白壁・土蔵造り「蔵元」は、かつての造り酒屋であった。
■筆塚、正縁寺、斑稲荷神社
中山道と正縁寺との間に、筆塚がある。ここは代々儒学者でもあった佐藤家が開いた寺小屋で、塩名田を主に周辺からも人が集まった。嘉永6年(1853年)に小諸藩の典医・漢学者加川謙助が撰文し、門弟300余人により筆塚が建立された。
正縁寺は、浄土宗知恩院の末寺で、山号を向択山と称し、本尊は阿弥陀三尊像。
この地は、阿弥陀如来を信仰する伝統的地盤であった。字入道(舟久保団地南)に新善光寺とも落合善光寺とも称された寺があった。戦国時代に戦禍で寺は焼失し、江戸時代に阿弥陀信仰の僧が居住しており、正縁寺の称名もそこに由来したらしい。
元和・寛永年間(1615~1644年)に、超誉一念和尚により再建された。寺院は昭和48年(1973年)に焼失し、同61年9月に再建され現在に至る。
寺裏の墓地には、中山道の旅人で、この地で亡くなった武士や庶民の埋葬地もあり、墓標には出身地や身分・職業のほか千曲川での事故死をうかがわせるものもある。
正縁寺境内の斑稲荷神社は、天明7年(1787年)2月、正一位稲荷大明神を勧請したもの。養蚕業が盛んな時期は厚く信仰された。
■長寿寺、中津小学校跡
本陣付近から、宿を南に入った付近に真言宗の長寿寺跡がある。明治初年廃寺となり、その後、中津小学校が建てられたが昭和40年代に廃校になった。
■真楽寺への道標
橋の東側約200mの場所に、「真楽寺 是より三里」の道標がある。真楽寺は奈良時代に浅間山の噴火を鎮めるために建てられたお寺で、浅間山信仰の集団(講)への道標(みちしるべ)である。
文化2年(1805年)、元は滝明神社の近くにあったが、道路が新しく造られたときに現在の場所に移された。
■不動尊堂、滝明神社跡
明治44年(1911年)、中津橋架け替えに伴い国道も付け替えられ、ここに移された。滝明神社もあったが、塩名田神社へ移された。
■滝の水、十九夜塔
滝大明神社にあるケヤキの根元から、水が湧き出て旅人を潤した。
その傍らに[十九夜搭]がある。旧暦で4月、女性が集まって十九夜念仏を唱和して健康の増進、出産の無事を祈念する行事を示したものである。
■休み茶屋
千曲川に沿った川原宿には、川魚料理などの店と「御や須ミ所 嘉登屋(かどや)」と往時をしのばせる鏝絵や古い街並みが残っている。この嘉登屋を含めて数軒の建物が3階建や4階建もあり独特の雰囲気がある。
昭和になって、新しく架けられた橋により、国道が高い場所になり、かつての2階建にさらに1階あるいは2階増床して出入口をつくったことによる。建築基準法のできる昭和25年(1950年)以前だから可能だったと思われる。
明治30年代、北佐久の中央に位置し、交通の要衝であったことから料亭が開業して、その後、花街として栄えた。
■舟つなぎ石
明治6年に船会社を作り、9艙の舟を繋いで、その上に板を渡す方法が取られた。当時の舟を繋ぎ止めるため石に穴をくりぬいた「舟つなぎ石」が残っている。
■大圓寺
浄土宗千恩院の末寺。山号は「超立山」、千曲川の左岸、御馬寄の中央北側にある。元和元年(1615年)の創建とされる。寛保2年(1742年)の水害により翌年、現在の場所に移った。
■勝手神社
中津橋を渡って100mほど行き左折し南へ200mほどの先に、御馬寄の勝手神社がある。創建は不明だが社殿に向かって右に佐久市指定の天然記念物の大欅が立ち、左には北朝の年号の刻まれた「山の神」の石祠も祀られている。武田信玄が社前で落馬したとの伝説がある。
■大日如来像
御馬寄集落から八幡宿への小高い場所に、大日如来像や阿弥陀仏が置かれている。
■御馬寄一里塚
大日如来から約100mほど西の、中山道の北側に御馬寄一里塚があったが、現在、その場所には標柱が立っている。
出典:浅科村史、浅科村の歴史「川越しものがたり」
江戸より44里4町(178㌔m)、24番目の宿場町で、千曲川の左岸にあたり、対岸の塩名田宿の加宿である御馬寄からの距離は3㌔m弱で、次の望月宿とも3km程度で両方の宿場との距離が極めて短い。これは川止めになった時の待機地として、また、この近辺一帯が強粘土質で降雨や雪解け時には、通行が困難になることから設けられた。
慶長年間(1596〜1615年)に付近の村々3村(宿場北方の蓬田(よもぎだ)村27戸、その東方の桑山(くわやま)村16戸、南方矢嶋村近辺の八幡(やわた)村20戸)63戸を街道に集め整備された宿場で宿長さ800mである。
3カ村は村寄せの令で集められて宿場をつくったことから、宿場としては一つであるが、3カ村ごとに名主などの村役がおり、それぞれ独立した村として運営され、他の宿場とは異なっている。また、3カ村の人々の居住地は複雑に入り組んでおり、隣同士でも大字と地番がまったく異なるため、外部者には住所が分かりにくく、現在でも宅配業者やカーナビ泣かせと言われている。
天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によると、本陣/問屋1軒(小松家)、脇本陣3軒(小松家・松沢家・鷹野家)、脇本陣/問屋(依田家)旅籠3軒と比較的小規模だが、脇本陣が4軒と多いのが特徴と言える。
当初八幡宿は、あら町(新町、荒町)と呼ばれたが、上州の新町と紛らわしいため「八幡神社」(はちまん)にちなんで、八幡宿(やわた)とした経緯もある。
なお、宿場名、神社名、寺の山号は同じ「八幡」と書くが、読み方は、宿場は「やわた」、神社は「はちまん」、寺の山号は「はばん」と読む。
■本陣・問屋跡
八幡宿の中央、北側にあり、小松五右衛門家が、本陣・問屋を代々勤めた。残されている門は、中山道の宿場本陣の中で最古と言われている。和宮の宿泊時使用したゆかりの物や、多くの書物、大名の関札(宿札)も多く残されている。
皇女和宮の通行
公武合体政策で、孝明天皇の妹和宮は14代将軍家茂との結婚のため、文久元年(1861年)中山道を江戸へ下り、11月7日に八幡宿へ宿泊した。翌8日は、千曲川を渡り、岩村田の相生の松で小休止、小田井宿で昼食、沓掛宿へ宿泊した。
宿泊した本陣・問屋の小松家には、和宮通行関係の古文書が数多く伝えられ、下賜された折り紙なども伝えられている(人形も下賜されたが残されていない)。
■脇本陣・問屋跡
脇本陣 鷹野半三郎(蓬田)、脇本陣 松沢弥八郎(桑山)、脇本陣・問屋 依田太郎兵衛(八幡)、脇本陣 小松勘左衛門(蓬田)の記録がある。
■八幡神社(はちまんじんじゃ)
江戸方枡形の北側にあり、所在地は蓬田村であるが、蓬田村・桑山村・八幡村3カ村の鎮守社。なお、本殿、瑞垣門、随神門、算額は佐久市の有形文化財に指定されている。
祭神は誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依姫命。平安時代の貞観元年(858年)に開かれたと言われている。各種極彩色の本殿の彫刻は幕府御用彫刻師の高松亦八郎の手によるものである。本殿・拝殿は天明3〜4年(1783〜1784年)、瑞垣門が宝永5年(1708年)、随神門は天保14年(1843年)小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主となり、川西地方村々の寄進により造営された。額殿には安永9年(1780年)に奉納された県下最古といわれている算額がある。
■高良社(こうらしゃ)
八幡神社の境内にある、八幡神社の旧本殿。延徳3年(1491)望月城主滋野遠江守光重を中心に、御牧七郷の総社として再建。天明3年(1783年)に新たに本殿が建立された際に、現在地に移された。建物は棟札とともに、国の重要文化財に指定されている。
また、高良社は「高麗社」で、この周辺に定住した望月牧に関する朝鮮半島からの渡来人の社といわれている。
■枡形
八幡宿の江戸方の枡形は、八幡神社の前に設けられた。今でも神社前の幾分広くなっている場所である。京方の枡形については、作られたとする記録や形跡はない。
■常泉寺
八幡宿往還の東端から北側へ200mほど入ったところに、耳取村の曹洞宗玄江院末寺で八幡山(はばんざん)常泉寺がある。所在地は蓬田(よもぎだ)村。当初は御牧ケ原の南斜面にあったが、八幡宿が作られたころ宿内へ移り、さらに現在地へ移動した。
■御井(みい)大神
下原入口のバス停脇にある石碑は、大国主大神の第一子木俣(このまた)大神を主神とする水神様である。この下原は水に恵まれない土地で、五郎兵衛用水の水を農業用水だけでなく飲み水などにも利用した。そのため、地区4か所にため池(別名:寄池)を作り大切にし、他の池の付近にも「生井(いくい)大神」や「生水(いくすい、いきすい)大神」等の神様を祀っている。
山本喜一家の水道紀功碑によると寄池の水をそれぞれ濾過して、地中隧渠(トンネル)を掘り、そこへ竪穴の設井(井戸)を掘り下げ、水を汲んで飲み水にしていた。明治33年(1900年)3月に起工とある。昭和37年(1962年)の上水道が普及するまで随渠は使用された。
■五郎兵衛用水
群馬県の南牧(なんもく)村に生まれた市川五郎兵衛は、江戸初期に産業振興の道を選び、私財を投じ曽祖父の代に所領があった佐久地域の新田開発にのりだした。
徳川家康の朱印状や小諸藩から寛永3年(1626)許可を得て、蓼科山中の水源から、当時矢嶋原という何もない原野だったところまで、5年を要して約20㌔mにもおよぶ用水路を築いた。岩盤を掘り抜いた「堀貫」と呼ばれるトンネルや「つき堰」といわれる盛り土、川の上を渡す「掛樋」など、高度な土木技術を駆使した難工事のすえ寛永8年(1631年)に完成したものである。
これにより矢嶋原の原野は、五郎兵衛新田といわれる美田に生まれ変わった。用水は約400年を経た今日まで地域住民が脈々と受け継ぎ、維持・管理されている。
平成30年(2018年)8月14日、国際かんがい排水委員会(ICID)は歴史的・技術的・社会的価値ある農業用水利施設として、「世界かんがい施設遺産」として登録した。
■富岡街道のわかされ
本陣の近くから、南へ富岡街道が、明治に入って作られ、野沢を経て下仁田・富岡へ通じていた。
古くは、「根ぎわ道」と言われる脇往還があり、山際を伝うように、八幡宿から鶴沼・上原、根岸・小宮山・前山を経て、佐久甲州道の野沢宿へ出る道で、現在でも地域の人たちの重要な生活道路である。
出典:浅科村史、五郎兵衛用水土地改良区パンフレット、成澤一成氏資料「下原の水道水」柳澤徳雄書他
江戸から44里20町〈175㌔m)、25番目の宿場で、八幡宿からは33町(3.6㌔m)と短いが、八幡宿との間には難所の瓜生(うりゅう)坂がある。江戸方から、百沢集落を過ぎ、金山坂の山道を約1㌔m上ると一里塚があり、峠の頂上付近に茶屋跡があって、瓜生坂を下り鹿曲川(かくまがわ)に掛る長坂橋を渡って望月宿に入る。
古くから馬の名産地として知られ、「朝廷の牧場(望月牧)」として保護されていた。毎年旧暦8月15日の満月の日に、朝廷に献上していたことから馬に「望月」の名が付いた事に始まると言われる。
天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」では、本陣1、脇本陣1、旅籠9で、宿長は約650mである。
寛保2年(1742年)の8月に大洪水(戌の満水)に襲われ、新町(鹿曲川の右岸)はことごとく流出し、高台への移転を願い出たが認められず、左岸にある宿場の南側に移り、木戸(枡形)を設けて河原に出、鹿曲川に長坂橋を掛けて中山道へ続く様に作り替えた。
■瓜生坂・一里塚
古くは、瓜生峠とも呼ばれた。百沢から、山間の坂道(金山坂)をしばらく上ると頂上の手前に「瓜生坂一里塚」がある。形が崩れているが南側はほぼ形をとどめ、北側はかなり削り取られているが対の形跡がうかがえる。左右両塚ともほぼ存在する貴重な一里塚である。
瓜生坂の頂上をこえたところに、石碑「中山道瓜生坂」「奉供養普門品1万巻念仏百万編塔」「大乗妙典供養塔」があり、また、北側に峠の茶屋が大正初期まであったと言われている窪地がある。急な坂道(瓜生坂)をさらに下ると鹿曲川右岸の長坂に出る。
■長坂石碑群と大応院
旧道は狭く曲がりくねった坂道で、途中の長坂には「石尊大権現」「道祖神」「御岳神社」「百万遍供養塔」「馬頭観音」など修験道関係の多くの石碑がまとめられていて、これらは戌の満水の際集めたものかもしれない。
石仏の里と言われる望月は、道祖神140基、馬頭観世音445基、聖観世音菩薩180基など3000基以上と言われている。
大応院は、当山派(真言宗)の修験寺で昔は月輪山郷東寺と号していた。寺社奉行からでる命令や交渉ごとを司った触頭も勤めていた(上田市横谷家文書)。また、ここから2㌔mほど下がった古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった「佐久補陀山観清寺」の別当も兼ねていたが、本尊馬頭観音坐像や飯綱権現立像など、また長坂の古碑群を残して明治5年に廃寺になり、今は住宅となっている。
石碑群の残る長坂を下り、長坂橋を渡ると望月宿に入る。
■信永院
「金峯山信永院(しんにょういん)」の本堂は、江戸末期の建築。本堂前にある根元から十数本の幹を生じた珍しい榧(カヤ)の巨木は、樹齢約500年。上野の国多古群神保村仁曳寺(じんそうじ)の末派で曹洞宗の寺院である。
戦国時代末期の天文元年(1532年)創建で、当初は蟠龍窟の対岸にあったが、この地に移転。本尊は釈迦如来像(江戸中期の作)。武田信玄の甥にあたる武田左京太夫義勝が望月氏を継いだ時に建立し、長篠の戦いで討死の後寺号が改められた。
■音正寺跡
安養山音正寺は、江戸時代の初期、慶安4年(1651年)建立。佐久穂町の千手院の末寺で、天台宗の寺だったが明治4年廃寺となった。寺の跡には、宝暦4年(1753年)建立の「大乗妙典五千部供養塔」と「当寺六世法印顗庶民」の石碑が残されている。
■望月山城光院
望月城麓に位置する曹洞宗の寺で、文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。甲州北巨摩郡大八田村清光寺の末寺。本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は、室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に、室町末期永正年間の宝筐印塔(ほうきょういんとう)2基がある(望月町史では望月氏の墓3基とある)。山門を入ると左に多くの庚申塔(青面金剛像)や鞍掛石の他、右に月の模様が丸く浮き出ている「月輪石(つきのわいし)」が置かれている。
ここの鐘楼は時の鐘として戦国の世から昼夜撞き、江戸では鐘撞料として御蔵籾年18俵寄付されていた。今でもこの鐘の音を聴くことができ、情緒のある町になっている。
■蟠龍窟・弁財天・豊川稲荷
鹿曲川右岸の岩壁を穿った石窟に祠を設け、市杵島媛(いちきしまひめ)神を祀ってあり、蟠龍窟といい、弁財天である。その断崖の上の台地に、豊川稲荷が祀ってある。
この弁財天は、永正年中(1504年~1521年)に信永院開山道厳禅師が、琵琶湖の竹生島より勧請したとある。
安永年間(1,772〜80年)に信永守殿禅師と大森久左衛門が宝殿を再興、岸壁上部には魔除けの為に「三日月」「蟠龍窟(ばんりゅうくつ)」と篆書(てんしょ)の文字(大森曲川の揮毫)が刻まれている。入口に句碑「駒曳きの木曽や出るらん三日の月」と去来の句碑がある。「聖徳太子」の碑は比田井天来の揮毫である。
豊川稲荷は、江戸末期ごろ、三河の豊川稲荷から勧請したとあるが、詳細は不明である。
■井出野屋旅館
1976年と2006年に角川映画で、金田一耕助を演じる石坂浩二主演で「犬神家の一族」で那須ホテルとしてロケに使われた。建物は大正14年に料亭として建てられ、現在も旅館として使われている。
■脇本陣 鷹野家
脇本陣は、問屋役も兼ねて鷹野家が行っていた。本陣の斜めにある鷹野家脇本陣跡は、出桁に木鼻彫刻が印象的である。
■問屋・旅籠 大和屋(真山家)
屋号を大和屋といい、問屋と旅籠を兼ねていた。焼失した後、明和3年(1766年)に再建されて以来、昭和51年(1976年)の解体修理で手が付けられていないことが確認され、国の重要文化財に指定されている。望月宿最古の旅籠でもあった。2階が1階よりも前方に突き出ている出桁(だしげた)造りは貴重であり、ここにも木鼻彫刻が刻まれている。
■大伴神社
望月の御桐谷(おとや)にあり、佐久式内三社の一つ。また御嶽(みたけ)神社も同地にある。大伴神社は創建当初、別なところにあったが、望月宿を造営後、この地に移転された。
祭神の天忍日命(あめのおしひのみこと)は、馬に乗ってこの地へ来たと伝承されている。乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、この地は、多数の優良な馬を産する地となったと言われている。毎年8月15日には、数百人の人が松明を持ち、山を駆け下り望月橋から鹿曲川に松明を投げ込む神事、榊(さかき)祭りがある。
鳥居の前の「大伴神社」の碑は比田井天来の揮毫である。
■望月城址
城光院の裏山が本城、そこから南へ1.5㌔mの支城まで続く。主郭、二の郭、三の郭とあり空堀や帯曲輪、腰曲輪が残っている。城址の標高は小海線八千穂駅と同じ780m、鹿曲川からの比高は110m、登山時間20~30分で主郭部分に到達する。
その歴史は古く、滋野氏の流れを汲む滋野三家の望月氏によって築かれた。建武2年(1335年)8月の中先代の乱に、信濃守護の小笠原貞宗が経氏に命令し攻撃・落城したとあるが、望月氏は滅亡せず、室町時代に新たに築城された。天文12年(1543年)には、武田信玄によって陥落するが、望月氏が武田氏の支配下となることで城は存続し、その後改修・大拡張されたと思われる。
武田氏滅亡後、信長の支配下に入り、本能寺の変後、北条氏と一年も籠城戦を戦い、大軍を動員していた北条方が兵糧等の戦費が負担になり、望月氏と和睦をするも、天正10年(1582年)に徳川軍の依田信蕃によって佐久の諸城は攻略され、望月城も1ヵ月半の籠城戦の後に落城した。その後、再建はならずその役目を終えている。
■天来記念館
昭和50年(1975年)に開館、美術館法ができて第1号の書道美術館、天来、小琴、門流の3部門の展示をし、漢字、かな、漢字仮名交じり、前衛書の現代書家まで網羅している。建設に当たっては全国の書道関係者や書道愛好者、学校などの寄付によって実現したものである。
収蔵する作品は、比田井天来は、20才代から絶筆までと落款印などの常設展示、比田井小琴は、かな書家で教本や作品の常設展示、また門流は、桑原翠邦をはじめ現代書家までの作品を入れ替え展示しています。
全国の書家作品を展示している書道美術館として有名です。(天来記念館は、駒の里ふれあいセンター北側にあります。)
比田井天来(1872年~1939年)は、明治5年(1872年)佐久郡協和村片倉(現佐久市協和)に生まれ明治30年(1897年)26歳で上京、日下部鳴鶴に学ぶ。昭和7年(1932年)鎌倉に書学院を建設。昭和14年(1939年)68歳、1月4日没、書学院殿大誉万象居士。
その活動は、20世紀日本の書道の基盤を作り、その生涯の多くを遊歴に費やした。北は樺太から南は台湾まで、膨大な数の作品が残されている。故郷である長野県には、多くの作品が大切に保存され、その書業を伝える優れた名品がそろっている。
■望月歴史民俗資料館
望月宿の本陣跡地に建設され、平成3年(1991年)8月に開館した。歴史的景観を損なわぬよう配慮された外観と、内部には江戸時代の民家を解体した梁を使うなど、趣のある造りとなってる。
豊かな自然と培われてきた歴史的風土の中に存在しており、望月の地に残されているさまざまな歴史的資料をもとに、「郷土の歴史と文化」「中山道望月宿」「人々の暮らしと伝統」の3つのテーマに分けて展示されている。
出典:望月町誌、望月歴史民俗資料館刊行物
中山道望月宿と芦田宿の間にある集落で、本陣などの機能はなく旅人の休み処となり間宿(あいのしゅく)といわれた所である。江戸から45里10町(178km)、望月宿から26町(2.8km)、芦田宿から18町(2km)、宿長は750mである。(茂田井の宿内は1.7km)
幕末の皇女和宮の下向に際し間宿として協力、銚子(酒器)が下賜された。また、天狗党の通行の折には小諸藩が出兵した所である。
大正になると若山牧水が立ち寄って短歌を残している。そして今は映画のロケ地としても有名である。
江戸元禄の頃から酒作りが始まり、明治以降は二つの酒蔵があり、美酒として有名である。茂田井地方は良質の米の産地で、小諸藩主や家臣らは飯米として毎年江戸まで運ばせたと言われている。
■神明社
東の集落のはずれに在って、江戸時代の宝永6年(1709年)、この地の大澤茂右衛門が願主となって建立した。祭神は天照大神で本殿は、神明造りである。境内には、「宝永12年7月11日・奉寄進大澤資利」と刻まれた一対の灯篭がある。神明宮ともいい伊勢神宮のことである。
■諏訪神社・夫婦道祖神群
馬頭観音石碑横の寺小路を少し歩き、左奥に「諏訪社」が見える。端整な社殿は文化15年(1818年)、宮大工・田中圓蔵が建てたもの。周囲の彫刻が見事。文久元年(1861年)に建てられた神楽殿は老朽化のため、平成30年に解体された。回り舞台があり、正面の欄間には鏝絵(こてえ)、左右中二階部分から飛び出しなどのできるからくり出窓が付いていたとされる。
境内のはずれに「夫婦道祖神」が並んでいるのだが、なんと大小9基もある。茂田井村各地にあったのを集めたとのこと。
また、集落の南側にあった「日の出地蔵」もここに移されている。鳥居の近くに芭蕉の句碑もある。
■無量寺
寺小路を登っていくと赤い六地蔵が見える,石段の向こうに本堂がある。天台宗比叡山延暦寺の末寺で,本尊は薬師如来(やくしにょらい)とされ来迎山無量寺という.この寺は、平安時代の長保(ちょうほ)5年3月(1003年)創建といわれる.開山は僧恵心院源信(そうえしんいんげんしん)とされているが,中期に兵火を被(こうむ)り,かつて茂田井南側にあったものを現在の地に移したといわれる。
■石割坂
茂田井村は蓼科山の北麓に位置し、東西に延びる坂道(中山道)沿いの集落である。西の芦田宿側の近くに、石割坂という地名がある。ここは、坂の途中に大きな岩があるため迂回して通らなければならない急な道だった。中山道を整備する際にこの岩を砕いて、通りやすくしたことから、ここを石割坂と呼んでいる。
■茂田井一里塚
一里塚は石割坂を過ぎた宿のほぼ西外れにあり、東は瓜生坂一里塚、西は笠取峠一里塚へと続く。天保年間(1830〜1844年)に編纂の「茂田井村差出帳」には街道の両側に土盛があり榎の根本が残っていた、とあるが今は石祠だけである。立科町指定史跡。江戸から数えて45番目になる。
■牧水歌碑
酒と旅をこよなく愛した詩人若山牧水はこの地を度々訪れていたということから、武重本家酒造の正面に「若山牧水歌碑」が建てられている。
よき酒とひとのいふなる御園竹けふ飲みつよしと思えり 牧水
白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり 牧水
ひとの世にたのしみ多し然れども酒なしになにのたのしみ 牧水
歌碑にある最初の句は酒を愛した牧水が大正14年に武重本家酒造を訪れた際に詠んだ御園竹の歌、その3年後には43歳で亡くなっている。
■武重本家酒造
坂を下ると、白壁の土蔵に白壁の母屋がある。宿の左には川が流れ、静かな街道に白壁の土蔵が続く町並みは、懐かしさいっぱいの景色である。
白壁の先に酒林(さかばやし)が下がっているが、ここは明治元年(1868年)創業の造り酒屋「武重本家酒造」であるが、土日は休業するため、入口の一部分しか見学できないので注意を必要とする。銘柄、御園竹を製造する酒蔵でもある。
映画監督の山田洋次郎氏が映画ロケ地として武重酒造周辺を使い、「たそがれ清兵衛」や”家族はつらいよ”シリーズの第3作品「妻よ薔薇のように」を撮影した。
■大澤酒造・高札場跡
武重本家酒造をさらに西に進むと、元禄2年(1689年)創業の「大澤酒造」がある。300年以上続く老舗の蔵元だが、なんと、創業時の酒が白磁古伊万里の徳利に入れられて保存されていたとのこと。また、古い巨大な鉄釜が外に転がしているのは見ものである。
大澤酒造では、酒蔵の中に民族資料館、しなの山林美術館、書道館を併設しているので、時間が許せば見学を勧めたい。
大澤家の塀のはずれに「高札場跡」の表示があり、簡単な説明書きが添えられている。それによると、「大澤家は元文2年(1737年)から明治4年(1872年)まで茂田井村の名主を務めた家柄であった」とある。
天保12年(1841年)には、村高967石、家数139軒(88軒往還町並、38軒裏屋、13軒古町)、人別626人、家並通りは10丁12間(1,113m)余り、とある。また、下組高札場、上組高札場の二か所に高札場があった。
出典:望月町誌、武重賢治氏資料