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タイトル画像-佐久鯉の東京進出

 大正から昭和初期まで、佐久鯉は「第一次黄金時代」を迎える。大正九年、野沢町産業組合(農協の前身)の設立と同時 に、初めての東京出荷に踏みきった。当時、東京へは貨物列車で3日間かかったが、輸送中の酸素補給、水槽の水温調整な ど技術的な不足から悪戦苦闘が続く。  個人で東京進出を試みた斉藤彦六(岸野)は、江戸川にトラック3台分の鯉を収容できる池を設けた。当時、この川には 山椒魚も住んでいたという。斉藤は、佐久から小諸まで天びん棒で鯉を運び、小諸から上野までは貨車輸送。ズックを張っ た木組み水槽を足踏みふいごで休むことなく踏み続けた。夏場は2割落ち、冬場は皆無という活魚輸送に画期的な先鞭をつ けた。

貨物に佐久鯉の入った水槽を積む様子
●貨物輸送 昭和3年には、貨物にキャンバス製の水槽を積んだ輸送が始められ、人力で空気を送るなど手数を要したが、鯉桶よりも多くの鯉を運べる様になった。
トラックにある水槽に佐久鯉を流し込む様子
●活魚輸送 昭和7年ごろから、酸素ボンベと分散器によるトラック輸送が始められる。

 大正十二年の関東大震災後、競って東京への販路開拓が始まったが、「野沢の鯉」「桜井の鯉」「中込の鯉」など、その名称もまちまちだった。  大正十三年、野沢町で全国初の「養鯉品評会」が開かれ、佐久の鯉も全国的なものになりつつあったことから、名称統一を望む声が一気に高まった。当初は「佐久養鯉」という名称で統一したが、何となくスッキリしなかったことから更に検討された。  ブランド商品として「佐久鯉(さくごい)」の名が正式に決まったのは昭和5年。活魚輸送の専用貨車の登場とあいまって、四国を除く日本全国に佐久鯉が進出するようになる。

「佐久鯉」という言葉はいつから?・・・

  大正末期に東京での販売に際し宣伝文句として「千曲の清水と砂利の中で育ち、上州の鯉よりうまい佐久鯉」とうたっているのがはじめて。

 

佐久鯉の宣伝フィルム
●昭和3年に野沢町農会作製による宣伝用のフィルム。このころはまだ「野沢鯉」と記されている。
佐久鯉の選別器が3個積まれた様子
●名称統一後の選別器。こちらは「佐久鯉」なっている。
佐久鯉の栄光

 昭和4年、天皇即位の御大典には天長節と国賓パーティー用として佐久鯉千尾、百五十貫が宮内省に納められている。
  昭和6年、設備を整えた「活魚専用貨車」が登場する。車内に活魚水槽4槽を設置し、車軸の回転に連動したポンプで、水槽の水を上に揚げ、ジョウロの口からシャワー状に散水する。圧縮空気で、水槽の底から泡状に空気を送ることもできた。
 昭和七年、熊本県八代水産試験場への親ゴイ輸送、ついで北海道札幌帝国農会へ300貫を貨物で送った。札幌に着いた時、30%の歩減りがあったが、追加で送った260貫では、わずか2%の歩減りにとどまった。東京出荷量も、昭和元年には19 トンであったが、昭和8年には300トンに達し、驚異的な伸びを示した。

北海道へ佐久鯉三百貫本場中国大陸にも逆輸出

 昭和15年には、ふ化20日後の稚ゴイ10万尾を中国へ輸送した。全行程4千キロ。水温上昇を防ぐため、夜行列車を乗り継ぎ下関下車。下関― 釜山は船旅。釜山から朝鮮半島を縦断して2600キロの貨車運送となったが、途中の乗り継ぎを利用して魚を休ませ、中国山西省太原(たいげん)に十日ぶりに到着した。ここで換水したが、水質が鯉に合わなかったためか、死魚続出。しかし、2万尾が生き残り、その後の飼育も好成績だった。 鯉の原産はもともと中国。そのときに中国に渡った鯉の子孫がその後どうなったのかはわかっていないが、このことは言わば「鯉の郷帰り」でもあった。

 


●佐久鯉の宣伝 フォード車に宮内省御用の鯉を積んでピーアールにつとめた。