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タイトル画像-佐久鯉の歴史
佐久鯉の発祥は十八世紀末 淀川の鯉を持ちかえったことから始まる。

浮世絵風の鯉を持ち帰るイラスト

 天明年間(1781〜88年)、桜井地区の呉服商・臼田丹右衛門が大阪淀川から持ち帰った「淀鯉」が佐久鯉のはじまりと言われている。
  佐久鯉の美味しさの秘密は、佐久独特の「気候と水」。佐久平を貫流する千曲川の清流と伏流水、八ヶ岳・秩父山系の広大な自然林を水源とする安定した水流。米作地帯を網の目に結ぶ用水の発達。豊かな水の恵みに加え、内陸性気候の「冬寒く、夏暑い」という寒暑の差と朝夕は冷えても日中は太陽熱で暖かくなる一日の著しい気温差が、身の締まった「佐久鯉」誕生の要因となっている。
  文政八年(1825年)岩村田藩主・内藤豊後守が大阪城勤番を終え帰国の際、再び淀鯉を持ち帰り、野沢村の豪農・並木七左衛門に土産として与え、桜井地区での養殖を定着させるきっかけとなった。 冬期間、鯉はエサをとらず池の底で“冬眠状態”に入る。桜井地区には千曲川の伏流水が噴き出す池が至るところにある。

佐久鯉の歴史
西暦 年号 できごと
前100   中国に養鯉始まる。
1781-88 天明元年 佐久桜井村の臼田丹右衛門、大和国淀川産の親鯉数尾を佐久に持ち帰り飼育する。
1830-43 天保元年 このころから桜井村の戸々の屋敷内に池をつくり、稚鯉が生産される。
1833   桜井村の養鯉業者ら、下仁田より干蚕蛹を移入し、養鯉餌料とする。
1842   佐久跡部村茂原猪六、「養鯉日記」を記す。
1844-47   佐久の浅沼太十郎、屋敷裏の稲田で養鯉を始める。
1857   「猪六日記」に鯉料理の記述。(鯉吸物・鯉皮千切・洗鯉・鯉刺身・鯉すくみ・鯉甘煮・鯉ぬた)
1866   「猪六日記」四月に孵化術の一般化記述。
1875   中込村・野沢村・原村で稲田養鯉が商品生産としておこなわれる。
明治初期   天秤商いで群馬・山梨県下まで販路を広げる。
1902 明治35年

明治時代の佐久鯉とりあげの様子

佐久鯉、初めて宮内省買い上げとなる。
1906   ドイツ鯉を水産講習所より導入、佐久鯉との交配試験を野沢町に委託。(ドイツ♀×在来佐久鯉♂)
1920 大正9年 野沢町産業組合設立。
1923   鉄道利用による遠距離販売開始される。
1924   野沢町にて全国初の養鯉品評会開催。
1925   佐久鯉加工工場開設。
全国副業展覧会にて佐久鯉一等に入選。
1926 昭和元年 東京出荷19トン。
1928 昭和3年

昭和3年当時の鯉の缶詰め

佐久養鯉出荷組合、出張所を東京などに設ける。
1930 昭和5年 東京出荷量210トン。
この頃「佐久鯉」と名称が統一される。
1932 昭和7年 北海道札幌帝国農会に三百貫輸送。
1938 昭和13年 東京出荷300トンに増大。
1940 昭和15年 佐久地方の養鯉生産が二十五万貫に達する。
1940 昭和15年 関東軍要請により、仔鯉十万尾を中国山西省太原市に輸送。
1955 昭和30年 二幸(新宿)・三越(日本橋)などで佐久鯉宣伝販売。
1956 昭和31年

昭和32年の宣伝販売の様子

百貨店、スーパーマーケットに佐久鯉売込み。
1957 昭和32年 水槽・酸素補給導入により、トラックによる鯉の長距離輸送開始。
1962 昭和37年 長野県養鯉生産が日本一となる。
1963 昭和38年

第一回佐久鯉祭りのにぎわいと行列の様子

第一回鯉祭り、洞源湖・貞祥寺にて行われる。
東海区水研の指導で、鯉唐揚げ試作。
1964 昭和39年

養鯉水田を眺める皇太子様

皇太子殿下、佐久の稲田養鯉を視察される。

たらいにとり上げられた佐久鯉

養鯉記表紙


養鯉記
野沢の金子喜一郎の明治末から昭和初期に残した「養鯉記」に年間給飼表があり、当時すでに計画的生産がされていた。