佐久鯉の歴史
佐久鯉の旨さの秘密
鯉養殖の発祥は、一般に中込・桜井・野沢の三地区において始まったと伝えられている。中込については資料も乏しく関わった人も定かではないが、桜井については、18世紀末の江戸時代、臼田丹右衛門という商人が大阪淀川から持ち帰ったものが始まりと伝えられている。また野沢については、文政8年(1825)岩村田藩主内藤豊後守が大阪勤番から帰藩の際、鯉を持ち帰り、藩の御用達を勤めていた野沢の豪農並木七左衛門に与えたことから始まったと伝えられている。

初期は池中養殖で、その生産は極めて僅かなものであったが病人の滋養効果が高いことから高値で取り引きされていたようであり、次第に大きく成長していった。
また、年貢のかからなかった養鯉を一層手広く行おうと、池中養殖と併用しながら水田を活用した稲田養殖も始まった。これは、米を作りながら鯉を育てるといった一石二鳥をねらった新技術であった。稲田養殖は佐久の気候風土にマッチした優れた養殖技術であったが、太平洋戦争後から稲作への農薬使用の増加とともに衰退し、昭和40年頃にはほとんど見られなくなったが、近年になって減農薬栽培の普及、減反政策などにより水田養殖(特にフナ)が復活してきた。

 明治の時代を迎え、産業全体が活発化するとともに鯉の養殖もその生産量が大きく増加していく。長野県は群馬と並んで、国の主力産業であった製糸業を支える、養蚕の盛んな地域であり、佐久は養鯉飼料として最も優れているサナギが容易に手に入る立地にも恵まれ、鯉の大量生産が可能となった。明治4年に行われた旧長野県(現在の東北信地方)の特産物調査によると、佐久地方の鯉の売上は22.5tであった。
 また、生産量の増加にともない販売もより広域に拡大していくことになる。明治26年には信越線が全面開通し、販路も東京をはじめ各地へ広がり、佐久の鯉は全国的に知られていった。

佐久鯉の生産量は、昭和14年頃がピークで約940tにのぼっていたとみられる。生産量の増加とともに品質向上への取り組みも行われ、鯉を博覧会、共進会、品評会等へ積極的に出品し、優れた名声を得るところとなり、佐久鯉は品質・生産量ともに日本一の称号を得るところとなった。
佐久鯉に寄せる市民の思いも深く、昭和36年の佐久市制の発足にともない”佐久鯉祭り”が市民挙げての行事として始まり今日に至っている。また、市のシンボルとして花(コスモス)木(落葉松)とともに鯉が市の魚となった。

しかし、鯉の養殖技術の進展により池中養殖からため池養殖や大きな湖沼での網生け簀養殖などによる生産が始まり、産地間の競争が激化し、霞ヶ浦など生産コストが安く格段に大量生産が可能な地域に押されるとともに、水田の基盤整備により養殖池の消失が進み、佐久の養鯉は、減少の一途をたどることとなった。現在、その生産量は平成12年度には117tと大きく減少している。

 
 
 佐久鯉の旨さは、何と言っても千曲川の清冽で豊かな水によるものである。鯉の養殖池が在る水田地帯は標高が700メートルの盆地で、そこを貫流する千曲川は、年間の平均水温が10℃を僅か超える程度であり、このような環境下、本来温水魚である鯉の成長は遅く、他産地では2年間の飼育で販売できるものが佐久鯉は3年間の飼育が必要となる。しかし、これは生産性という面では弱点であるが、その分身が締まって大変品質の良い鯉が育つのである。

 また佐久鯉は品種としても他産地に比べ優れている。佐久鯉のルーツは江戸時代に大阪淀川から移入された淀鯉であると言われているが、幾多の年代を重ねる中で品質の改良が行われてきた。明治37年にドイツから輸入されたドイツ鯉との交配が行われ、他地域に比べ背肉が盛り上がり体高があり、丸まると太って肉付き肉質の良い佐久鯉が形づけられた。

 鯉は水温が10度以下になると餌をほとんど受けつけなくなる。水揚げされた鯉は、清水の中で内蔵の泥を吐き出し、身が締まり全く臭みのない「佐久鯉」が生まれるのである。


引用文献:『佐久鯉の歴史』 淡水魚研究会 昭和59年3月30日発行