碓氷峠頂上の県境に建つ熊野神社
 標高1188bの難所碓氷峠を越えると、中山道は信州・佐久平に入る。最初の宿場は軽井沢宿で、板橋宿を第1次とすると、第18次にあたる。もっとも、その宿場跡は旧軽銀座と言ったほうが通りがよい。いやむしろ、旧軽銀座がかつて宿場であったことを知らない人が圧倒的多数を占めていると思える。それだけ、観光やリゾートの面で軽井沢は全国区の大ブランドになって、有名店が軒を並べる夏の賑わいのなかでは、中山道はまったく隠されてしまっている。だが、よく観察すると、わずかながらも宿場の雰囲気が遺されている。
 今も土蔵が遺る本陣が1つ、脇本陣が4つ、旅籠屋が21あって、飯盛り女も多く、特に江戸に下る旅人には人気の宿場だったという。飯盛り女は宿泊客への給仕もしたが、要するに非公認の遊女であった。
 本陣というのは大名や公家の宿泊所で、脇本陣は副本陣とも呼ばれるように、その予備的な宿所であった。それでも家臣従者が収容しきれない時は、一般の旅籠に泊めて、これを下宿と呼んだ。下宿の名のおこりであるが、今では死語に近いのかもしれない。
軽井沢宿の面影を残す旅館

 1635年に制度化された参勤交代によって、諸大名は1年交代で江戸と領地に居住し、正月には揃って将軍に拝謁したので、この制度は街道の発達を一段と促した。諸大名が宿泊する本陣も、さぞや潤ったことだろうと想像するのは間違いある。わずかな公定額が支払われるだけだった。参勤の一行は米などの食料を持参したので、炊事のための薪代だけを支払う庶民の木賃宿と大して変わりはない。おまけに身分の高い客は、当然のことながら鄭重にもてなさなければならず、気ばかりつかって実入りの少ない役である。だが、本陣はもともと宿駅の旧家、富裕者の邸宅が指定されたものであり、主人は名字帯刀を許されたから、いわば宿駅最高の名誉職であった。
 離山を右手に見て西に進むと、次の宿場は沓掛宿である。軽井沢宿と、北国街道の分去れ(分岐点)で賑わった追分宿の間に挟まれ、それほど目立った宿場ではなかったといわれる。土蔵と井戸が遺る本陣1つ,3つの脇本陣のひとつは旅館となっている。旅籠屋が17軒あった。沓掛という地名は全国にたくさん残っているが、人間や馬の草履を履き替える際、古い草履を掛けたことからきている。この先も元気で歩き続けられますようにという祈りの気持ちが込められていた。
沓掛宿の脇本陣跡

 幕末、徳川家茂に降嫁する皇女和宮が通行の時、縁起が悪いという理由で、追分宿は「相生宿」、離山は「子持山」と強制的に名を変えられて、その間の沓掛宿が宿泊地に選ばれた。長谷川伸の小説『沓掛時次郎』はこの宿の名を有名にしたが、「浅間三筋の煙の下」の沓掛宿も、現在は中軽井沢と名を変えて、中山道全体で唯一、過去の地名となっている。

 
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