会頭 樫山高士
 新橋演舞場でにぎやかな春の公演を見てきました。
 出演は中村勘三郎、藤山直美、波乃久里子、中村七之助、大村昆<コンの時は上に山偏が乗っている文字>と多彩な人気者の芝居で、演出がこれまた多才なラサール石井となれば人気も高く、チケットの入手は難しいかなと思っていましたが、我が家には若いのに勘三郎丈の後援会員がおりまして、その手配で正月歌舞伎では吉右衛門の当たり芸「俊寛」を舞台間近の3列目で、そして今回は4列目という役者の細かな仕草、表情までもよくわかる席でした。

 芝居は幕末から明治維新にかけての時代に、薩摩の国に接して徳川三百年を押されながらもやっと生き抜いてきた、とある小さな藩の殿様の生き様のお話です。
 大きな変革の時代である江戸から明治への過去の権威と新たな権威との狭間にあって、たとえ小さな藩でも明治の新政府は「殿様」に爵位を与え、あるいは廃藩置県のなかで新たな「知事」に任命することが通常だった中で、中村勘三郎演ずるこの殿様は藤山直美が演ずるばりばり「関西」の恐妻と共に、自ら百姓になり民衆の中で自分らしい幸せをみつけるのでした。芝居の中では今の日本への警句のようなメッセージをちりばめながら、観客を笑いの中に誘い、人情や権威のもっている儚さ<はかなさ>を
伝えるのでした。

 時代の変化と過去との決別の象徴が「ちょんまげを切る」ということなのですが、日本のまた当時の日本人を象徴していた「ちょんまげを切る」を今の時代に省みると、戦後の時代が作った常識や、官僚のための仕組みに隠されている既得権が、いかに日本を駄目にしたか、また新聞やテレビのマスメディアがいかに「品格」をおとしめているのか。 日々起こる過去の日本ではあり得なかった事件事故を繰り返しメデイアがばらまくことで、さらに犯罪を誘発してはいないだろうか。

 遅すぎる感もありますが、今我々すべてが共犯者になっているような気がしてなりません。未来に夢を描きにくい日本を「ちょんまげを切る」思いで、次の世代に日本固有の美意識を、また自然への畏敬の念を、さらには【利他は回向す】という日本人の互助の精神を取り戻さなければと思うのは私一人ではないと思うのですが。

 
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